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■2010/08/11 (Wed)
7・クライマックス

当り前の定義を示すが、クライマックスとはそれまでに提示した全てが統括される場面のことである。
だが最近のアニメでは、放送回数を無駄に消費して、最後になって唐突に何かをする、というパターンが目立つ。物語の最後の最後という局面に差し掛かると、それまでの文脈をまったく無視して、唐突に難題が提示され、その難関に対して登場人物たちが何かしようというドラマが作られる。
まるで、夏休みの宿題を、残りの数日になって大慌てで片付けようとするみたいに。

それまで描いてきた全ての要素を足し算していったところにクライマックスは存在している。クライマックスはそこに至るまでの物語の全体像を克明にし、作品の真の姿を示す場面である。
作品はクライマックスに向けて物語を綴っていくべきだし、そこに至るまでの構造に間違いがなければ、クライマックスは確実に素晴らしい瞬間になる。

6aa1dcbc.jpg85394895.jpg『鋼の錬金術師』におけるクライマックスは、言うまでもなく『約束の日』である。夜明けのシーンから数えて16話(→第49話親子の情)。通常のアニメなら一つのシリーズを終えてしまうだけの分量を、ac00982b.jpg0ab8ea13.jpgこの『約束の日』というたった一日のために消費された。物語中の時間で見て行くと、夜明けから日食が発生する昼までの短い時間だ。
ここまで長い場面を一つのシーンとして44f5018e.jpg7a39fa9a.jpg描いてきたアニメはないし、今後においても稀な作品になるのは間違いない。しかもどの場面も息苦しいまでの緊張感に満ち満ちていて、一瞬の隙も油断も許さない名シーンの連続であった。
最近のほとんどのアニメは尻すぼみになって忘れられ、埋もれていくだけだが、ここまで右肩上がりに輝きを放った作品の例は非常に貴重だ。

e71a1aa8.jpgなぜ『鋼の錬金術師』はあのような傑出した場面を作り出せたのか。それはこれまでの組立ての全てに意味があり、意味を与えようという作者の意識的な意図があり、それが結実するフィールドの構想があったからである。才能と偶然によって作られたものではなく、構想しようという意志力と計算力があのようなクライマックスを作り出せたの178fa8bd.jpgだ。
漠然としたキャラクターのアイデアと勢いだけでは後に残る作品は生まれない。作品をどのように発展させていくか、どのような結末を目指して物語を構築していくか、その構想力がなければ、物語創作は確実に失敗する。
3381100b.jpgそこに、ある程度の思想や理性的な知性も必要だ。物語最初に提示したベーシックを哲学的領域まで深化させられるまでとことん考えぬかれば、物語は広がりと深さを獲得することはできない。
『鋼の錬金術師』という作品を支えたのは、原作者荒川弘の優れた構想力によるものだ。エピソードの一つ一つに物語後半に向けて意133036b9.jpg味づけをしようという意思があり、それが着実に効力を持ってクライマックスを作り上げた。それから、ふとすると難しくなりがちな物語の背景や構造を、冒険物語の過程の中で順当に解説し、読み手に理解を促していった。物語作りにおいて大切な心構えである「わかりやすく語ること」という当り前の作法を心得た結果である(物語をもっとも28b17889.jpgらしく見せようとして意図的に難しく、わかりにくくしようとする作品と作家は多いが→押井守)
はっきり言えば、荒川弘は絵がうまい漫画家ではない。アクション描写が優れているわけでも、感動的なドラマに長けている作家でもない。ビジュアル構築を見ても、第1次世界大戦前後ふうのドイツの風0ca3a401.jpg景に、今どきなファッションが不自然に混じっている。これならば、今どきの素人のイラストレーターのほうがずっと優れた作品を描くことができる(最近は素人でもやたら絵がうまいのだが)。それでも『鋼の錬金術師』を誰もが認める傑作に押し上げたのは、荒川弘の構想力とそれを支える知性、それから深い洞察力である。そして、ふとすると92a3b257.jpg74af1d82.jpg複雑になりかける物語(あるいは哲学)を、誰にでも理解できるように噛み砕いて伝える能力である。
ただ漠然と物語を作るのではなく、終局的な意図を持って物語を綴っていく、といef3461d2.jpg83a1db82.jpgう考え方が大切なのだ。構想しようという意志力そのものが必要な心構えなのだ。
『鋼の錬金術師』相当のストーリーを、あるいは『鋼の錬金術師』を越えたいと思うのなら、キャラクターやベーシック的なも47eb2bc5.jpg48f63e5b.jpgのを考え出した後に、それをどのように生かすべきか、どのように深化させられるか、キャラクターとベーシックがスカスカになるまで考え抜く。最初に提示したアイデアでどれくらいのスケールまでイメージを3c9cba00.jpgc87ab2ac.jpg押し広げられるか。その考える力なしには、どんな傑作は生まれない。



前回:伏線の作り方


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■2010/08/11 (Wed)
6・伏線の作り方

最近の多くのアニメで失敗し、困難に思われている要素に「伏線」がある。伏線をどう配置するのか、どのタイミングで提示すべきなのか、これが難しく考えられている。
単純に答えを示せば、「物語の中における解説」と同じように提示すればいいのである。つまり、主人公が体験する過程そのものが「解説」であると同時に、「伏線」であればいいのだ。
もしや伏線と言うものを思わせぶりに予告する台詞やアクションのことであると捉えていないだろうか。確かにそういうわかりやすい伏線も存在するが、それは効果的ではないし、伏線というものの利用方法の全てでもない。
ここでは、伏線の2つの活用法方を提示しておく。
1・物語を次に移すための準備段階としての伏線
2・物語の最終局面に必要な要素を準備するためのもの

『鋼の錬金術師』における伏線は、物語のなかで主人公が体験すべきものとして描かれてきた。例えば「コーネロ→賢者の石」、「スカー→イシュバール殲滅戦」。物語を解説すると同時に、物語領域を拡張するための準備段階として伏線が活用されてきた。だから、伏線とは物語の過程の中に、それとなく配置していくのが正しいやり方である。
また、伏線は物語の続きを予告するためではなく、物語の最終局面に向けて物語を補強するものである、という考え方もある。
例えば第21話のエドの台詞。

7ae32481.jpgb2267357.jpgエド「で、二人で一緒にあっちに持っていかれて、一度分解された。その過程で、俺とアルの精神が混線してしまった可能性がないだろうか」
ウィンリィ「どういうこと?」
エド「こっちにいる俺と、あっちにいるアルの肉体が繋がっている可能性はないかってことだ。ほら、俺って歳の割りに身長ちい……ちい……ちっさい……」

これは第63話でエドが自分の扉を代価として真理に捧げた後、脱出のためにアルの扉が使える、ということを予告し、あるいはあらかじめ理屈を示しておくことで、読者の理解を促すためのものだ。
あるいは第45話のリンの台詞では、

56c163e8.jpgd0807e63.jpgリン「セントラルの地下にいるあのお父さまとやらが来るべきその日に扉を開ける。俺の素人考えだが、そこにお前たち兄弟が飛び込めば、2人とも元の体に戻れるんじゃないか」

これは必ずしも正しい知識ではないが、お父さま(ホムンクルス)の目的を予告し、その最終局面においてエドとアルが元の体を取り戻すヒントを示している。
伏線とは物語の解説の延長上にあり、クライマックスに必要なフィールドを整えるための準備である。そのための心理的準備を読者に促し、どう捉えるべきか、何が起きたのかを理解させるためのヒントを与えるものだ。
例えば、ホーエンハイムの旅の途上で、方々で自身の血を大地に振り撒いていた。あれが何の意味を持つのか、物語の最後の最後というところで明かされるのだが、あれも物語の最終局面を構築するための準備活動であるといえる。
伏線とは「回収」するためにものではなく、「準備」するものだと心得たほうがよい。
今どきの作家や読者は「フラグ」という考え方をするが、これは伏線ではない。それまで物語と接してきた経験と照らし合わせ、ありがちと思える展開を予測し、その結果を共有することが「フラグ」である。だからフラグは、作り手と受け手の間で「約束事」として共有されるだけで、伏線としての効果など持ち得ないどころか、その文化圏に属していない新規のユーザーを排除してしまう、ということを忘れてはならない。

この伏線を、物語の文脈の外で何となく振り撒いてはならない。
ff6c0869.jpg例えば『聖剣の刀鍛冶』という作品がある。『聖剣の刀鍛冶』の登場人物の一人であるルーク・エインズワースの瞳の色が、左目と右目と違っていた。質感も違うように描かれ、何かあるらしいと了解させるために、執拗にクローズアップを繰り返されていた。
しかし、これは主人公セシリー・キャンベルが関知しない伏線であった。主人公が察知できない伏線は、どんなに繰り返しても、なんら効力を持ち得ない。物語とは主人公が物語上にある物事を了解していく過程であり、主人公が関知しないところで何か伏線めいたものを何となく配置しても、それは物語の最終局面に対してほとんど何も貢献しない。
そのうちにも、ルークの瞳の色が違う理由が解説されたが、主人公の驚きは何もなく、それまでに組み立てた伏線もどきは何ら効果を持たなかった。
だから効果のないところで伏線をいくら振り撒いても、何ら意味はないのである。

ところで、ある一つの結末に向って、知識や仮定を提供することが伏線であるとする。伏線とは、読者の考え方を誘導し、「こう考えるものですよ」というガイドラインであると考える。
すると、伏線という手法を使った別のやり方も考えられる。
読者にわざと間違った考えかたを示し、物語の最終局面を間違った方向に誘導するやり方である。つまりミスリードである。
ただし、ミスリードは非常に扱いの難しい手法だ。第一に、ミスリードはミスリードなりに一貫した思考過程を示さねばならないし、その土台となる基礎知識的なものは、正解の知識と一致していなければならない(乖離していると、読者を混乱させるだけだ)。うまくいけば読者を心地よい驚きに導けるが、不用意にミスリードを示せば、物語の軸は完全に捻じ曲がり、読者が物語の本筋を見失ってしまう恐れがある。ミスリードを使う物語上の意図や、狙う機会があれば、どんどん活用していきたい手法だ。

前回:読者の心理を操作する
次回:クライマックス


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■2010/08/11 (Wed)
5・読者の心理を操作する

物語の順序立てをしっかり組み立てると、読者は主人公が背負い込んでいる立場や状況を知り、主人公と気持ちを一致させる。感情移入している状態だ。
主人公がどんな過程を経て、現在に至るような苦悩を背負い込むことになったのか。これが読者の側に充分な重さを持って伝わっていれば、その次の「ドラマ」という段階に移ることができる。
28ebe64d.jpg例えばアルの置かれている状況は、極めて特殊だ。「真理に体を奪われた少年」。現実世界では絶対にあり得ないし、例として示すこともできない。普通に考えれば、アルのような立場に「共感」することは極めて難しいか、まったくの不可能だ。どんなに優れた役者が、身一杯に悲劇を演じてみせても、見ている側には何一つ伝わらないだろう。
ところが、ほとんどの『鋼の錬金術師』読者は、アルの立場に「同情」し、「共感」を示すようになっていた。物語の解説がうまくいき、次なる「ドラマ」の段階に移れるようになった合図である。
ところで、読者の心理は主人公の意思によって、ある程度まで操作可能だ。主人公が物語上で経験したことというのは、読者が物語上にあるものを理解した過程でもあるからだ。主人公の役割とは、その物語の進行役を務めながら、読者に対してルールブックを提示する立場のことであるといえる。
6546449a.jpg例えば、《キメラ》というものを嫌悪すべきか好感を持つべきか。エドは始めは好意を示したが、その背景に犠牲があるのを知って、嫌悪する。すると、読者も同じように嫌悪する。「《キメラ》は嫌悪すべきものである」というルールが示されたからだ。感情移入が深くなっていくと、「主人公の心理」と「読者の心理」が接近していくから、物語の主人公に釣られるように、「《キメラ》は嫌悪すべき」という意識を学習するのだ。

実は同じ内容を、このブログ内ですでに書いたので、ここにその部分を引用したいと思う。 主人公の役割は、その世界における、嫌悪するべきか、好感を持つべきかを示すルールブックになる。
物語中における独自のルールや登場人物――例えば「人体練成」や「キメラ」といったもの。そういったものに嫌悪するべきか好感を持つべきか。
主人公との感情的な一体が充分に行われている状態であると、これがうまくいく。
その解説の過程で、創作者は受け手の感情を自由に調整することができる。これは物語制作において、重要なテクニックの一つである。
物語中、独自に提示されたものに対し、好意を示すのか敵意を示すか。その判断を下すのは主人公である。読者は大抵の場合、主人公に「感情移入」することで物語世界へと入っていく。主人公は読者と物語世界を繋ぐ架け橋のような役割を持ち、読者は物語世界に没入している間、主人公の感情に左右され続けるのである。主人公が憎いと思えば憎い、心地よいと思えば心地よい。ある意味、主人公は読者にルールブックを提示し続けているのだといっていい。

a6eaa6fc.jpg主人公の役割とは、作品の象徴であるばかりではなく、作品と読者を繋ぐ架け橋的な意義を持つ。だから『けいおん!』の平沢唯のように、「一番いい場面で一番おいしい台詞を言う」というだけでは、主人公の立場としては不十分だ。
感情とは容易に伝播しやすい性質を持っている。例えば、いち集団内の誰かが苛々し始めると、感情は伝播して集団全員が必要あるなしに係わらず怒りの感情を共有し、次第に吐け口となる標的を求めるようになる(これが真逆の喜びの感情でも同じ作用が起きる)。創作者は、主人公の描き方次第で、読者にどのような感情を抱かせるか自由に操作できるのだ。
ところで感情の操作は、ある程度現実的な倫理観に準じていなければ効果を失う。例えば、盗みと殺しというような、普遍的なモラルに反するような行動である。基本的モラルに反する行為は、それまでにどんなにうまい解説をしても、必然的意義について熱弁をふるってみせても、何ら効果を発しないどころか単なる自己弁護して反発を食らうだけである。“良心”と“正義”という吐け口が背景にあって、初めて読者は主人公と気持ちを一体にすることができるのだ。

前回:物語の全体像を作る
次回:伏線の作り方


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■2010/08/11 (Wed)
4・物語の全体像を作る

はじめに命題として掲げたが、最近のアニメは長大な物語を作ることが不得手になっている。それはなぜなのか。
単純に答えを言えば、物語の構造の作り方、それから発展させるやり方を誰からも学んでいないからだ。繰り返し書くが、「物語は思ったとおり書けばいい。自分の感性だけを信じて奔放に書けばいい」という日教組教育的な創作論にしがみついていたら、絶対に行き詰るし、傑作が誕生する期待はやはりできない(これで傑作ができるのは本物の天才だけ。「自分の感性」あるいは「自分の個性」などというものは徹底的に疑い、見下し、物語と自身を分析的に捉えて作品を作るべきである。「個性」をむやみに賛美する日教組教育的思考は、創作の世界において有害でしかない)
創作は理性的に構造を組立て、周到に準備するしたたかさが必要だ。読者を物語世界へと誘い、熱狂させ、クライマックスへと感情を導いていく。そのためには、規則正しい順序、段階を踏んでいくべきである。
それではどのように考えて物語に順序立てを作っていくべきなのか。
まず基本的な思考として、物語は大雑把に「ドラマ」と「解説」の二つの局面により分けられる。これに、要所要所の見せ場となる「アクション」を付け足してもいいだろう。
物語はまず、「解説」という基礎段階を踏んでいくべきなのである。いきなり「ドラマ」を作ってはならない。いきなり「ドラマ」を物語上で演出してみせても、それがどんなに素晴らしい展開で、役者の見事な演技力が加わっても、何となく見ている側の感情を上滑りしてしまう。なぜならば、主人公たちが置かれている立場がわからないからだ。
単純な例として、主人公は不治の病である。間もなく命が尽きようとしているが、まさにその時、運命の恋をする……。この「主人公は不治の~恋をする」までが「解説」の部分だ。これを一気に端折って、主人公の死というクライマックスを描いても、見ているほうは「何が起きた?」とぽかんと放り出されるだけだ。まず「解説」、それに至った経緯を語る必要があるわけだ。
「解説」は物語がどんな世界を持ち、主人公がどんな立場であるのか、「ドラマ」を描くための土台作りのような作業だ。
ところで、「解説」はシンプルでなければならない。ダメな例は(SF映画にありがちだが)冒頭テロップで長々と「解説」してしまうことだ。あれで解説したつもりになってはならない。長いテロップを読むのは重労働だし、固有名詞が多く、話が複雑になってくると、テロップが画面に現れている数秒の間にすべてを理解するのが難しくなってくる。SF映画の約束事になっているテロップだが、基本、シンプルであるべきだ。映画の雰囲気作りというべきか、簡単な前置きで終わらせるべきである。
それでは「わかりやすい」「理解しやすい」解説とはどんな解説なのか。単純率直な手法は、「解説」を主人公の「体験」の中に全て描くことである。主人公の体験の中に、物語上の何もかもが説明されるから、読者は主人公と一緒に物語世界の背景を学ぶことができる。物語世界が特殊であると、主人公と一緒に体験していく過程がちょっとした冒険気分になって、楽しい気持で物語を惹き付けていられる。

『鋼の錬金術師』を例に当てはめていくと、主人公エドが体験していく過程が、物語の背景を暴きだす過程と捉えることができる。
15a30c3e.jpgc2707bbf.jpgまずエドはリオールへ旅立ち、カルト教団のコーネルと戦う(→第3話邪教の町)。この段階で読者は『錬金術師』と呼ばれるものの能力と社会的立場を理解できるはずだ。あるいは、主人公エドが7875b275.jpg191358be.jpgどんな立場であるのかも。それから、コーネルとの戦いを通して「賢者の石」がどんなものであるかも解説される。
次に、エドとアルの過去に物語は遡っていき、2人の現在に至る境遇が解説され9f1c0997.jpg6546449a.jpgる(→第2話はじまりの日)。エドとアルがいかにして体を失ったのか。《人体練成》という重要なキーワードがここで登場する。
その次に登場したのはキメラだ(→第4cc3e289c.jpgf92c7dc5.jpg話錬金術師の苦悩)。キメラとは何か、キメラをどのように捉えるべきなのか。ただ解説だけではなく、どう感じるべきか、というところまでしっかり描かれている。
キメラのエピソードが終わると、今度はスa4416f84.jpgc5ea0138.jpgカーの登場だ(→第5話哀しみの雨)。スカーの登場によって、物語の大きな世界観である、過去の戦争についてが解説される。過去に何があったのか、それからアメストリスという国についてが改めて解説される。
スカーが去っていくと、次は物語上でも最も重要な《第5研究所》だ(→第8話第5研究所)。《第5研究所》において賢者の石に関する秘密がようやく見え始め、これが物語後半に向けての大きな伏線となる。第5研究所は一度通過して終りではなく、物語のうちで何度も繰り返され、その重要度が確かめられる場所である。

こうして見ていくと、『鋼の錬金術師』は順当に物語に必要な解説を、読者の理解を推し量りながら進めていった、ということがわかる。リオールの戦いの前にキメラのエピソードがあってはならないし、当然だがスカーのエピソードが前にあってはならない。単なる「アクション」でも「ドラマ」でもあってもならない。「解説」を各エピソードの中に込めることが大切なのだ。
読者にどのように物語の背景にある多様で複雑なものを了解させていくか、思考すべき過程を提示していくことが創作において必要なのである。

ここで、2つのダメな例を挙げたいと思う。
『電脳コイル』と『シャングリ・ラ』の2作品だ。
このどちらも、物語の後半になって大慌てで「解説」を突っ込んだ作品だ。前半部分はゆったりと進んで行ったのに、物語の最後、クライマックスの直前になって、「実は……」と物語の核心が一気に詰め込み状態で解説される。しかも、そのほとんどが台詞だけによる解説である。
7eab3748.jpgcdc1afa8.jpgすでに書いたとおりに、映画冒頭に長々とテロップを流しても、まず誰も理解できない。同じ理由で、台詞だけの解説を延々流39726801.jpg8845f98e.jpgされても、見ている人は何が起きたのかさっぱりわからない。理解力によるが、人によっては物語が破綻している、と捉えられ7dc5e618.jpg243f33b6.jpgてしまう場合もある。物語の大切なところで読者を放り出すような解説を繰り広げ、その後にクライマックスを描かれても、いったい1274d023.jpg7fdba8b7.jpgどういった理由で何が起きたのか、どう捉えるべきなのかさっぱりわからない。そこに感動があるわけがなく、なんとなく白けた気分でせっかくのエンディングが空振りしてしまう。
酷かったのは『シャングリ・ラ』のほうだ。物語の後半になって解説の詰め込みが始まるのだが、その解説の中心に主人公がいないのである。つまり、主人公は自分がどんな立場にあるのか知らないまま、物語の終わりに向かっていってしまったのである。見る側にとっても、主人公がどういう立場にいるか提示されていない状態であるから、主人公の心理に感情移入などできるはずもない。そんな状態のまま、クライマックス、エンディングに突入してしまったのだから、物語の重さなどどこにもなく、茫然とするしかないのである。
なぜ、『電脳コイル』や『シャングリ・ラ』のような状態に陥ってしまうのか。第一に、それまでの過程が、物語全体の構造を解説するのに何の必然性を持っていなかったからだし、あるいは作り手が必然性を与えようと考えなかったからだ。
第二に物語全体を俯瞰しながら物語を綴っていくバランス感覚。この2つが欠落すると、「前半は面白かったのに後半は尻すぼみに萎んでいく」という最近のアニメにありがちな失敗をするのだ。

前回:余談・父性に取り囲まれた物語
次回:読者の心理を操作する


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■2010/08/10 (Tue)
3・余談:父性に取り囲まれた物語

『鋼の錬金術師』は父親に取り囲まれた作品であると言える。主人公のエドとアルを中心に、これみよがしな父性のイメージが取り巻き、そのなかで主人公の成長物語が描かれている。実は典型的なエディプス・コンプレクスの物語である。

ebebee7a.jpgお父さま(ホムンクルス):エドとアルの父親、ホーエンハイムと同じ顔を持っている。エドの記憶の中にある、厳しい一瞥を向ける離別の場面。無条件に厳しく、冷酷な父親の側面(というエドの思い込み)のみを分離した姿がお父さま(ホムンクルス)である。
このお父さま(ホムンクルス)がエドのもっとも大きな敵対者として立ちはだかることで、『鋼の錬金術師』はエディプス・コンプレクスという本質を明快にさせている。

d3529647.jpgイズミ:母親を失ったエド、アルの前に現れる人物。女性であり、イズミ自身、子供を亡くした母親であるから、普通に考えれば母性の回復のために設定されたキャラクターと見做すのが妥当だが、イズミにびっくりするほど母性、もっといえば女性的なものを感じさせない。むしろその激烈な性格は、男性的、父性的な印象が強く、実際、エドとアルの戦いの師匠を務め、あるいは人生哲学の教育者にもなる。
シグと一緒のときは、ほんの僅かな女性性の断片のようなものを見せるが、残念なくらい女性的なものを感じさせない。男性が女性の振りをしている、というようにすら見えてしまう。そのシグだが、印象はぼんやりしていて、父にも母にもなっていない。イズミの添え物である。
ルックス、プロポーションは申し分ないのだが、イズミには女性性が完全に欠落している。エド、アルにとって、男性的、父性的な存在だ(インドの神話に登場する、女神カーリー的なものと考えればいいのだろうか?)

72c32580.jpgオリヴィエ・ミラ・アームストロング:アレックスの姉であり、北方指令軍ブリッグズの守護者。ルックスは問答無用の美貌を放っているが、イズミをさらに濃厚にした激烈さを備えた人物である。
イズミから卒業し、新たな局面を迎えたエド、アルの新しい教育者として登場する。オリヴィエのイメージは震え上がるほどに苛烈で、その強烈さでエド、アルに戦いの過酷さ、非情さを指導していく。エドとアルは、オリヴィエと接することで、さらなる段階へと成長していく。

77d8e828.jpgアレックス・ルイ・アームストロング:オリヴィエの弟で、長身で筋肉逞しい体を持つ。見た目は男性性そのもののような力強さを持っているが、奇妙なことに、作品における数少ない母性的な存在である。
アレックスは母性的な存在として、エドとアルの庇護者となり、危険な旅を優しく見守り、時に暑苦しい愛情のこもった抱擁で心の傷を慰めようとする。
アレックスの筋骨隆々のイメージと対立する母性。これは荒川弘特有のユーモアなのだろうか、それともそういうものを好む性格なのだろうか。

c5bb93db.jpgホーエンハイム:エドとアルの父親。エドのイメージ内にある、冷酷な側面をホムンクルスと分割した後に残された姿である。成長したエドがようやく人間として向き合えるようになった父親がホーエンハイムであり、イメージの中で肥大化した冷酷さを取り払った本当の父親こそがホーエンハイムだ。
実際、物語中に描かれるホーエンハイムのイメージは、エドの成長段階に合わせて、問答無用な厳6a092c40.jpgしさから、ゆっくり氷解していくように人としての温かさや曖昧さが現れるように描かれている(一方でホムンクルスのお父さまは、最後には「父親」という「化けの皮」が暴かれて、まったくの別人に姿を変えてしまう。この時点では、エドはもう父親を倒すべき相手と捉えなくなっている)
エドのイメージ内にあった冷酷さが取り除かれてからは、ホーエンハイムは厳しさも優しさも両立する一人の人間として描かれるようになった。年長者としての強さと、人間としてのユーモア、優しさ、弱さも現れている。上に挙げた激烈な男性性と比較してみると、ホーエンハイムは驚くほど人間的に描写されているのがわかる。

『鋼の錬金術師』の本質はエディプス・コンプレクスである。しかし、ただ父親と対峙し、撃破する物語ではなく、主人公の成長段階で父親をどう捉えられるようになるか、あるいは最終的に受け入れられるようになるか、が主題と見做すことができる。
父親的な存在を撃破し、最終的に美女とのキッスを手に入れる西欧的な物語と比較すると、阿闍世コンプレックス(Wikipedia:阿闍世コンプレックス)的な日本人(アジア人?)の本質的な性格が作品に込められている、と見ることもできる。

前回:基本の構造を作る
次回:物語の全体像を作る


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