黒板に、大きく「進路説明会のお知らせ」と書かれていた。その下に、道を分けるように、「理系」「文系」の二つが四角に囲まれて並んでいる。
掃除当番の紺野真琴と早川友梨は、箒を片手に黒板を見上げていた。
「真琴。理系か文系か、決めた?」
友梨は、何気ない感じに真琴に尋ねた。
「まだ。友梨は?」
「私もまだ」
友梨がそう言うと、真琴は安堵のため息をついた。
「よかった」
「すぐには決められないよね」
友梨はぼんやりと呟くようにしながら黒板を見上げた。
「先のことは、わかんないよね」
真琴も、黒板の「文系」「理系」の二つの文字を見上げた。
真琴にとって、未来ははてしなく遠い。と、真琴自身はそう思っている。
だから、どんな選択に対しても、決断はしない。
未来はあまりも遠くて、漠然としているから。それに、真琴は「未来に行きたい」と願っていなかった。
プロデューサー曰く、現代は不可逆の原則が崩壊した時代だという。ビデオやゲームで、かつて一過性で終っていた快楽や恍惚を何度でも繰り返せるようになった。過去を巡り続ける『時をかける少女』はそういった現代の象徴なのだろうか。
だがある日、真琴に天啓のようにタイムリープの力が与えられた。
自転車の事故で電車に跳ねられそうになった瞬間、真琴はほんの一瞬前に戻っていた。
真琴はこの事件を切っ掛けに、タイムリープの力が自身に宿っていることに気付く。
タイムリープの力を使って、真琴は何度も過去に戻り始める。
食べたいものや、やり直したい失敗や、小さな欲望を実現させるために、何度も何度も過去へとタイムリープする。
同じ時間をぐるぐると繰り返していても、真琴はいつまでも一人勝ちでいられると思っていた。
美男両手に三角関係のどろどろした話が……という作品ではない。「ひょっとしたら、私は彼のことが好きかもしれない」という微妙な心理を描いた作品。「好きかも知れない」を確かめる恋愛映画は珍しいかもしれない。
そんなある日の夕暮れ。右手を流れる川が、夕暮れの光を宿して、きらきらと輝いていた。真琴は、千昭が漕ぐ自転車の後ろに乗っていた。
「本当に興味ないのかな?」
真琴は、千昭の背中に話しかけた。
実はさっき、功介が後輩の女の子に告白されたのだ。しかし功介は、告白を断ってしまったのだという。
「功介がねえっていうときは、ねえよ」
千昭は断定した。
「……ちょっとホッとした」
真琴はぽつりと言って、夕日に輝く川を見詰めた。
「なんで?」
千昭が理由を尋ねた。
「彼女できたら、大事にするよね」
「そういう奴だ」
真琴が確かめるように言うと、千昭は同意した。
「そしたら、野球、できなくなるもん。……なんだかな。ずっと三人でいられる気がしてたんだよね。遅刻して功介に怒られて、球取れなくて千昭になめられて……」
真琴は体を後ろにそらして、夕暮れの空を眺めた。
“今”がずっとずっと続けばいいと思っている。未来に行く必要なんて、真琴には思いつかなかった。
すると、千昭は気になるように真琴をちらちらと見た。
「真琴」
「うん?」
「俺と、……付き合えば」
千昭はもどかしそうに何度もつっかえて言った。
真琴は茫然として千昭の背中を見詰めた。
「止めて。ちょっと止めて」
自転車が止まった。千昭が真琴を振り返る。
「なにそれ?」
「え?」
千昭はごまかすように、ちょっと視線を逸らした。
「今の話」
真琴は厳しく追及しようとした。
「付き合おう」
千昭は、今度ははっきりと真琴に言った。
「どっからそういう話になったのよ」
真琴自身に、静かに感情が波立つのを感じた。
「功介に彼女ができたらって話。俺、そんなに顔も悪くないだろ」
千昭は照れ隠しのように笑った。
「……まじ?」
「まじ」
真琴は、茫然と口をあけた。
沈黙が二人の間に漂った。
真琴は、衝動的に自転車から飛び降りると、過去に飛んだ。千昭の告白をなかったことにするために。
あまりにも有名な話だが、細田守監督は『時をかける少女』を手がける以前、ジブリに在籍し『ハウルの動く城』を制作していた。だが給料未払い問題が発生し、ジブリの全スタッフから追い出されたのだという。細田守自身、監督業の終わりと思ったが、逆に転機になったかもしれない。ちなみに美術スタッフもは見れば、元ジブリの実力派が名を連ねている。裏事情はわからないが、細田守監督はジブリ内で信頼を得ていたようである。
真琴にとって、未来は遠い遠い別世界だった。現実感を感じない、いや、異世界のような場所であった。
だが、いつか未来に進まなねばならない。
その切っ掛けを与えたのは、千昭の告白だった。
千昭の告白を受け入れるのか、拒否するのか。
千昭のことは好きだ。でも、そういう恋愛感情での好きとは違う。……多分。もしかしたら、千昭への感情は、恋愛感情によるものかもしれない。
そんな自分の心の決断すら、真琴にはできなかった。
「理系」か「文系」のような選択のように、未来へ進むには何かを決定し、その方向へ真直ぐ進まなくてはならない。
だが、真琴はそんな決断を先延ばしにして、過去に飛び続ける。
キャラクターは影なしを原則にしてよく動く。影なし作画は、素人目には簡単そうだが、物の質感や立体を描きにくくなり、非常に難易度が高くなる。
アニメーションでの『時をかける少女』は、ひたすら過去を繰り返す物語である。もしかしたら、真琴のタイムリープは未来にも飛べるのかもしれない。
だが、真琴は延々、過去に飛び続ける。
現代人にとって、確かに未来は漠然としていて、それでいて不安を伴うものだ。
未来は、かつてのように、能天気に描けるものではなくなってしまった。
現代の子供たちは、未来をファンタジーとして夢想しない。科学文明がどんな幸福をもたらしてくれるのか。世界から戦争は終っているのかもしれない。いや、ひょっとすると『ブレードランナー』のような荒廃した風景が待ち受けているかもしれない。それはそれで、魅力的な未来のビジョンだ。
そんな未来へのビジョンは、現代の我々は誰ひとり思い描けず、提示することもできていない。
もちろん、かつて見た未来はたくさんある。例えば『ドラえもん』がそれだ。
『ドラえもん』は未来からやってきたロボットだが、すでに『ドラえもん』が描き出した未来へのビジョンは、未来ではなくノスタルジーである。『ドラえもん』は未来からやってきたのではない。
だから『時をかける少女』にも未来は描かれない。
延々、過去の、同じ時間が繰り返される。真琴は未来へ進まず、過去をぐるぐると、記憶の中にある恍惚と快楽を繰り返し続ける。
古い映画やアニメや、思い出に逃避する現代人と同じように、真琴は未来に進もうとはしない。
芳山和子役には原沙知絵が演じている。かつて、大林宣彦監督の実写版『時をかける少女』で演じた女優だ。アニメ版『時をかける少女』は、実写版の十数年後という設定になっている。ちなみに芳山和子が「魔女おばさん」と呼ばれているのは、細田守が東映時代に演出した『おじゃ魔女ドレミ』で、原沙知絵をゲスト出演させたから、その繋がりだという。
それでも、時間というのは“不可逆”である。過去を何度も繰り返しているように思えて、実は時間は前へと進んでいる。望まなくても、未来はやってくるのだ。
真琴は千昭への告白をなかったことにした。
だから何も起きないわけじゃない。なかったことにしたら、それはそれで別の未来がやってくる。“なかったことにした”というのも、選択の一つだからだ。
自由に過去に戻れるように思えても、実は真琴に流れる時間は、現実の物語は前へと進んでいるのだ。
それが、いつか取り返しのつかない事件を起こしてしまうかもしれない。
そんなとき、真琴自身に、厳しく“未来”が突きつけられる。
選択の拒否が許されない、“未来”である。
『時をかける少女』公開以前は細田守は「知る人ぞ知る人」で、作品は大きな期待をかけられていなかった。だが公開後は絶大な評価を受け、今や「知らぬものがいない名監督」である。
『時をかける少女』は、延々、過去を巡り続ける映画だ。だが真琴が走り出したとき、物語は“過去”という鎖から解き放たれ、未来へと進んでいく。
「走って行く」
それは未来への、あまりにも清々しいメッセージだ。
作品データ
監督:細田守 原作:筒井康隆
音楽:吉田潔 脚本:奥寺佐渡子
キャラクターデザイン:貞本義行 美術監督:山本二三
作画監督:青山浩行 久保田誓 石浜真史 主題歌:奥華子
アニメーション制作:マッドハウス
出演:仲里依紗 石田卓也 板倉光隆
原沙知絵 谷村美月 垣内彩未 関戸優希
桂歌若 安藤みどり 立木文彦 山本圭子
横張しほり 松岡そのか 反田孝幸 倉島麻帆
国に、不吉な影が迫りつつある。
土地は痩せて、原因不明の病が流行し、魔術師たちに魔法の力が失われてしまった。
それに、竜が東世界に現れたという報告もある。
何かが起きつつある。何もかもが、大きな災いへの前兆だ。
エンラッドの王は、考えに沈みながら階段を昇り、静かな廊下に出た。
廊下には、歴代の王達を象った像がいくつも並んでいる。
エンラッドの王は、自室へ向かおうとしたが、なにかの気配を感じて振り返った。
国の危機に、父祖の霊が語りかけようとしているのか。
「まさかな」
エンラッドの王は自分の空想に、苦笑いした。
よほど気が病んでいるらしい。考えすぎだ。
エンラッドの王は、気を取り直して、自室のドアを振り返った。
そのとき、はっきりと気配を感じた。
何奴!
だが、遅かった。賊の剣は、王の胸を深く刺していた。
エンラッドの王は、呻き声を漏らしながら、膝をついた。
体から、力が抜ける。指先が冷たくなって震える。
何者だ。エンラッドの王は、意識を失う前に、賊の姿を確認しようと顔を上げた。そして、驚愕に凍りついた。
「……アレン」
賊ではなかった。息子のアレンだった。
父と子の葛藤。宮崎吾郎監督は否定するが、明らかに宮崎駿と宮崎吾郎そのものだ。父と子というテーマを正面に出さず、テレビで連呼されるような通俗的なテーマを装ったことが、映画の失敗の原因だ。言葉が、身から出てきていない。
王族の息子に、幸福は望めない。
生まれながらにして、大きな財力と権力が約束されているが、その代償に自由を失う。
いわば“原罪”である。
著名人の息子に生まれるのも、同じ理由で不幸だ。
その父親が、もし宮崎駿であった場合、原罪の力はどこまでも重くなる。
宮崎吾郎の不運は、美術史上に残る天才の息子に生まれた時点で、すでに始まっていた。
『ゲド戦記』の風景は、クロード・ロランの絵からヒントを得ているが、もっとも参考とされているのは、もちろん父親、宮崎駿作品からだ。ここにも、父と子という対比構図が現れてきている。
『ゲド戦記』は、父親殺しから物語が始まる。
だが、アレンから父殺しの明確な動機は、一切語られない。
何かわからない、体内に眠る暗くておぞましいものが、アレンを理由もなく死の衝動に掻き立てて、実行に至らせたのだ。
アレンは平常でいるときは、社交的で、気の弱い青年として描かれている。
一方で打ち明けられない深層では、強い絶望を一人きりで抱えている。
アレンは孤独と絶望とを、一人で抱え、両極端の死の衝動に常に心を引き裂かれているのだ。
アレンは父親を殺して王宮を脱出した。
そんなアレンの前に現れるハイタカは、やはりアレンにとっての父親だ。
アレンは、どんなに早く走っても、遠くまで旅をしても、父親という幻想から抜け出られないのだ。
『ゲド戦記』は結局は素人映画だ。構図やカメラの動きは単調だし、効果を理解していない。物語つくりも理解していない。見よう見まねで、物真似をして見せただけだ。
『ゲド戦記』に描かれた情景は、どれも素晴らしく美しい。
宮崎吾郎は美術教育を一切受けていないとされているが、だとしたら驚嘆すべき感性と描写能力だ。
空間の描き方や、デッサン力。
それら基礎能力は、美術家として数十年、修練を受けた学生の能力を軽く匹敵している。
宮崎吾郎は、生まれながらにして、父の才能の一部を受け継いでいるのだ。
押井守は、『ゲド戦記』に理解を示し(半ば同情に近い)、通俗的な説教文句が羅列する映画の背景にある、“父と子”のテーマを抜き出し、容赦のない解釈を加える。宮崎吾郎自身、自分の体内に持っているテーマに気付けばよかった。
だが、エンターティメントの映画監督としては、あまりにも未熟すぎる。
物語はあまりにも平坦で連続性が弱く、観客に対する配慮が何もできていない。
解説的な台詞が多い一方で、テーマは薄っぺらで、通俗的な説教文句をただ並べただけという印象が付きまとう。
情景は丁寧に描かれているが、映像や演技で何か伝えようという努力がどこにも見えてこない。
物語に、宮崎吾郎自身の力と経験で得た哲学らしきものを感じる瞬間がなく、それがひどく幼稚な映画という印象に貶めている。
もっといけないのが、登場人物たちが、なに一つ困難に直面しないことだ。
敵に取り囲まれても、あまりにも強すぎる力で一瞬のうちに撃退してしまうし、アレンは奴隷にされてしまうが、簡単に救出されてしまう。
後ろ手に縛られたテナーは、何の苦労もなくロープからすり抜けてしまう。
手に汗を握る危機一髪の瞬間、というものが一切ないのだ。
観客は拍子抜けなのを通り越して、白ける。
大きな困難として描かれているのは、影に付きまとわれるアレンだが、肝心の影は観客に見えないし、感じることもできない。
これでは、滑稽な一人芝居にしか見えず、喜劇にしか見えなくなる。
何もかもが、作品を薄っぺらにしてしまっている。
芸術というのは、芸術家の体内から生み出さねばならない。そのためには机にすがりついて、ひたすら描き続けねばならない。宮崎吾郎もそんな機会があればよかった。だが、周囲が宮崎吾郎を振り回し、彼から修行の機会を奪っている。
最初の映画には、その映画監督の最もプリミティブな部分が現れる。
『ゲド戦記』を描いた宮崎吾郎には、間違いなくカットを構築する才能と能力を持っている。
だが、あまりにも現場での経験が不足していた。
普通の映画監督は、初めての監督作品でも、それに至るまでに映像の現場で経験を積むといった前段階があるはずだ。
宮崎吾郎は、何もかも順序を間違えたまま、映画監督として持ち上げられてしまった。
『ゲド戦記』は、宮崎駿の息子が監督するということで、あまりにも衆目の目にさらされすぎた映画だった。
本当ならば、もっと静かなところで、順序だてて経験をつむはずだった。
だが、宮崎駿の息子に生まれたという時点で、そんなチャンスすら許されないのだ。
作品データ
監督・脚本・絵コンテ:宮崎吾郎 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン
脚本:丹羽圭子 作画監督:稲村武志 美術監督:武重洋二
音楽:寺島民哉 色彩設計:保田道世
プロデューサー:鈴木敏夫
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:岡田准一 手嶌葵 菅原文太 田中裕子
香川照之 風吹ジュン 内藤剛志
倍賞美津子 夏川結衣 小林薫
日本は歴史上二度目となる鎖国体勢に突入する。
鎖国政策を敷く日本。これは、反日的なメッセージだろうか。それともSF少年の戯れだろうか。後者であると願いたい。
猛烈な吹雪の中を、SWORDの軍用飛行船が飛んでいた。
飛行船の中には、すでにフル装備の兵士たちが、突撃の合図を待って待機していた。
これから向かうフィラル山の屋敷で、各国の首脳が集って秘密会議が開かれる。
SWORDの任務は、この屋敷に突入し、秘密会議を阻止することであった。
ロボット社会に突入した近未来社会。だが、ライフサイエンスは禁止され、嫌悪の対象となっている。人間の善悪観が、個人の経験や哲学ではなく、法に依存していることがよくわかる。主人公ベクシルは機械に依存した生活を送り、機械に依存した仕事に従事しているが、なぜかロボットを嫌う。まるで、デジタルに依存しているのに、デジタル嫌いを公言する映画監督のようだ。
日本が鎖国政策を敷いて、すでに十年の年月が経過している。
この十年の間に、日本人と交流した者はおらず、日本へ渡航した者もいなかった。
その日本が、近年にわかに活動を始め、外国との接触を持ち始めていた。
中心となる人物は、日本人のサイトウと名乗る人物だ。
しかし日本がどんな目的を持っているのか、まだ誰も知らない。
アメリカ特殊部隊SWORDは、日本の動きを牽制するために、密かに鎖国状態の日本へ潜入する作戦を決行する。
線画のアニメでは、カットごとにキャラクターの線の構成やシルエットを変えるが、デジタルアニメーションはデジタルゆえに線画と同様の柔軟性を持てない。トゥーンシューダーアニメはパーパーアニメを志向しているが、まだ物まねをしている段階だ。
『ベクシル-2077 日本鎖国-』はトゥーンシューダー技術で制作されたデジタルアニメーションだ。
映像や物語に、際立った個性は感じられない作品だ。
SF作品にありきたりな展開に、わかりやすい人物配置。
作品世界の解説で前半30分を消費し、人物のドラマは後方に追いやられている。
注目されるデジタル技術は、いまだ実験段階の域を越えず、従来の撮影法を越える驚きや、美意識などは感じられない。
ペーパーアニメのように、線の動きに美意識は感じられないし、色彩の配置方法も鮮やかとはいいがたい。
キャラクターの動きは、体内に骨が感じられず、アニメーションのプロが演技をつけたとはとても思えない。
SFの中心テーマは、世界の解説であり、物語の展開はほとんど世界の解明に費やされる。解説が多くなりがちで、人間のドラマが後方に追いやられがちだ。世界構造の破壊であるアクションは、SF映画に見せ所だ。
物語の節々に挿入されるアクションは、唐突だが豪快な勢いで迫る。
激しくカメラが揺れ、仰々しいサウンドが全体を包み込む。
物語のおおよそは世界の解明に費やされ、人間のドラマは断片的にしか語られない。
退屈な対話と解説が延々続くなか、唯一映画が煌き、躍動し始めるのは、組立てを破壊するアクションの瞬間だけだ。
もし、破壊の映像にも退屈したら、この映画に見所はどこにもないだろう。
このジャンルのアニメーションもまだまだこれからだ。技術開発はもっと進むだろうし、優れたストーリー・アイデアが組み合わされば、誰もが認める傑作が生まれるだろうし、その可能性は感じる。それまで、もうしばし見守っていきたいジャンルではある。
低予算で、いかに高品質なデジタルアニメーションを制作するか。
『ベクシル-2077 日本鎖国-』は、あくまでもその実験段階のアニメーションである。
物語はトゥーンシューダー・アニメーションの約束事なのか、教科書どおりのSF作品だし、技術映画にも関わらず、制作者の挑戦的なものは感じられない。
映画としての美意識やイマジネーションも感じられない。
デジタル・アニメーションという試みは、始まったばかりなのだ。
クリエイター達の果てなき挑戦も、まだまだこれからだ。
作品データ
監督・脚本:曽利文彦
音楽:ポール・オークンフォールド 脚本:半田はるか
出演:黒木メイサ 谷原章介 松雪泰子 柿原徹也
朴路美 大塚明夫 櫻井孝宏 森川智之
貫くような霧笛の音が、少女の眠りを覚ました。
少女は目をこすりながら、自身の掌を見詰める。
いつの間にか、朝の光が射していた。
少女は毛布を羽織ったまま、ベッドから這い出て、光が射し込む階段を昇った。
入口の穴から外を覗くと、赤く染まる空が見えた。冷たく迫る風が、少女の白い髪を踊らせる。
少女は、頬杖をつきながら、そこから見下ろせる街を見詰めた。
『天使のたまご』は押井守監督にとって、大きな転換点となった作品だ。それ以前は『うる星やつら』などわkりやすい作品の監督を務め、それなりの成功を収めてきた。だが、『天使のたまご』にはその残像はどこにもない。
『天使のたまご』には言葉はない。
登場人物は、わずかに二人だけ。具体的な物語も、リズムのよい音楽もない。
ただただ、静寂の時間だけが流れていく。
『天使のたまご』には、現実世界よりもはるかに静かな瞬間に満ちている。
そんな場所で少女は青年と出会い、なにかが変化し、目覚めの時を迎える。
押井守監督が『天使のたまご』で得たものは多く、大きい。まず、映画製作は、集る人間によって決定されるということだ。本作は、当初はコメディを制作するつもりだったが、画家・天野義孝の才能が加わることによって、大きく方向性が変わることとなった。
少女はショールを羽織り、お腹にたまごを抱えた。身支度はいつもそれだけ。
少女は寝床を走って飛び出し、街を目指した。
街には、人間の影はない。
かつて人が住まう場所であり、人が通る道だった街。人間のために作られ、その痕跡をどこかに残した廃墟。
今は、少女ひとりきりの場所。
だが、どこかに気配がする。
窓という窓、路地という路地。街を巡る空気の中に、人の気配がくっきりと残っている。その気配が、少女を取り囲み、覗き込み、ひそひそと言葉を交わしている。
また、美術監督の小林七郎との出会いも会った。小林七郎との仕事が、後に“レイアウト法”を構想する切っ掛けとなった。ちなみに、小林七郎を指名する切っ掛けとなったのは、『カリオストロの城』の人と仕事がしたかったからだそう。
少女は街の中心地から離れた。
向かったのは、もっと古い時代の遺跡だった。
建物は半ば崩れ、人の痕跡はもう感じられない。崩れかけた階段の下には雨水が溜まり、セイタカアワダチソウが茂っている。
少女はジャムを食べて空腹を満たす。
腹から卵を下ろして、少し向こう側にある階段へ散策に行った。
古いトンネルを抜けると、階段の下が、プールのように水に浸されていた。
水面は、ゆるやかな風に、小波を立てていた。
少女は、水面の側まで降りて、しばらく楽しげに波が作り出す光と影を見詰めていた。
そろそろ戻ろう。すると、そこに知らない男の人がいた。
「あなたは、だれ?」
だが、『天使のたまご』は悲惨なくらい商業的に恵まれなかった。現在、ようやく作品が見直されてきたが、以前はビデオを入手することすら困難だった。この作品が災いして、押井守は以後4年間、仕事を失う。
永遠に続くと思えた静寂のなかで、少女と青年は出会った。
しかし、少女と青年は言葉を交わさない。濃密なふれあいもない。
ただ一度、「あなたは誰?」と訊ねるだけ。
『天使のたまご』の映像と感性を、他に例えるべき作品がない。
言葉はなく、すべてが余白として時間が流れていく。
描きこまれた美しい風景。天野義孝の手による、秀逸な美術。
そうしたなかで流れいく映像は、不思議と“詩”のような手触りを持ち始める。
『天使のたまご』は“言葉”ではなく“映像”で綴る詩であるのだ。
それでも、結局は4年間の失業期間は押井守に様々なものをもたらしたようだ。どの人間と仕事をすると、どんな結果の映画になるか。ちゃんと商業的な配慮も必要だということ。映画監督に必要なものは、すべてこの4年間の空白期間によって得たものだ。それにしても、どうやって生活して来たのだろう。
やがて少女は、青年と打ち解けて、自分の住処へと招いた。
少女の棲家は、あの街よりも、もっと古い時代の遺跡だった。壁には思い出すこともできない時代の絵が描かれ、大きな獣の骨があちこちに散乱している。長い長い螺旋階段には、水を入れた瓶が、律儀に並んでいる。
青年はふと、壁に描かれたレリーフの前で、足を止めた。
「これと、同じ木を見たことがあるよ。あれは、いつのことだったのか。忘れてしまうほど、遠い昔。音を立てて雲が流れていく空の下、真っ黒な地平線が、そのまま盛り上がって生まれた、大きな木。大地から生命を吸い上げて、脈打つ枝をのばし、なにかを掴んでいた。卵のなかの、眠り続ける、大きな鳥を」
我々はいつ目覚め、どうして言葉を綴り、どこへ向かって進んでいるのか。
我々が暮らしているそこも、思考も感情も、なにもかも幻ではないのか。
すべては廃墟が見ている夢ではないのか。
少女は、静かに答える。
「いるよ」と。
たまごのなかで、ひっそりと息をして、空を羽ばたく夢を見ている。
永遠に終わらない夢を
「あなたは、だれ?」
「きみは、だれだい?」
今、見直すと、技術の未熟さが目立つ。線画は今ほど洗練されていないし、アニメカラーの数は少ないし、撮影のミスもある。もしこれが、現在の技術と感性で作ったら、どうなるだろう。きっと、この当時の幻想的な空気は消えてなくなるだろう。
永遠に続くと思えた夢は、いつか終わる。
思いがけない形で、唐突に打ち破られて、光が全身を包み込む。
我々が浮世として感じているこの恍惚は、目蓋が開かれるまでのほんの一瞬のできごとかもしれない。
『天使のたまご』の映像が何を意味しているのか、解説しづらい。
観る人によって、観る人の感性によって、あるいはそのときの感情によって、すべての印象が変わってしまう。
『天使のたまご』には、ただ静けさと不思議な手触りだけを持って、言葉なくそこにたたずんでいる。
誰からも忘れられた作品。
『天使のたまご』は、今もそこで、夢の終わりを待っている。
作品データ
監督・脚本:押井守
アートディレクション:天野義孝
美術監督:小林七郎 作画監督:名倉靖博
音楽監督:菅野由弘 音響監督:斯波重治
アニメーション制作:スタジオディーン
出演:根津甚八 兵藤まこ
ナルト、サスケ、サクラの三人が、空き地でカカシ先生の到着を待っていた。
ナルトたちに、新たな任務があるらしい。
だが、例によって具体的な説明はなく、ナルトたちはカカシから、映画『風雲姫』を見ておけ、とだけ指示されていた。
そんなナルト達の前に、さまさかの『風雲姫』の主役、富士風雪絵が姿を現す。
富士風雪絵は、何者かに追われ、逃走していた。
ナルトたちは、雪絵を救い出すために、追手たちに戦いを挑む。
どのカットも、非常に細かく、こだわりが現れている。演技空間はどのカットも奥の奥まで描かれ(左のカットの、天井照明まで描かれるのに注目)、ちらと見えるモブまでしっかりと演技が付けられている。
今回の任務は、女優・富士風雪絵を護衛して、次なる撮影現場である雪の国へと無事に送り届けることだった。
間もなくして、女優・富士風雪絵は仮の姿であると判明する。
富士風雪絵は、実は今は滅びた雪の国の正当なる後継者だったのだ。
映画撮影はカモフラージュに過ぎず、真の目的は、雪の国復興のために、雪絵を祖国に連れ戻すことだった。
しかし、そんな雪絵の前に、悪の手先である雪忍ドトウが立ち塞がる。
『NARUTO』は、走り動画にこだわりがある。様々な走りポーズを見せるが、多くのシーンでは前傾姿勢になり、疾走するように駆ける。独特の走りポーズは同制作スタジオ作品の『忍空』から継承されたものだ。この走りポーズが、現実にはない、風を切るような素晴らしい移動感と爽快感を生み出している。
映画『NARUTO-ナルト- 大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!!』は大人気ナルトシリーズの記念すべき劇場版一作目である。
その完成度は非常に高く、アクションは圧倒的で、次々と繰り広げられる忍術戦に、観客を飽きさせず引き込んでいく。
どのアクションも力が強く、キャラクター達は人並みはずれた速さで疾走し、高く跳躍する。
ほとんどの場面は厳密なパースティクティブが設定され、キャラクター達はあえて重力の影響を受けている。
だが、その重力をあえて受けつつ疾走する姿が、実に清々しく、動きの一つ一つは美しい。
アクションの一コマだ。ほんの一瞬だが、仕事に妥協がないのがわかる。激しいアクションが連発するが、キャラクター達はレイアウトのパースティクティブの上に設置し、一定の重力感とディティールを常に保ちながらアクションしている。こうした卓越した表現技法は、日本以外のどの国籍でも制作不能だっただろう。
一方で絵画の豪快さと対照的に、物語は単調だ。
物語の展開に大きな転調はなく、まるで滑り落ちるように真直ぐ映画が終わってしまう。
映画関係者や悪の忍者ドトウといった、魅力的なキャラクターが多いが、あまりに捻りのないステレオタイプとして描かれている。
動画の圧倒的な印象に対して、物語にやや物足りなさが残る。
本作は“エフェクト”の映画として見るべきである。どのアクションも、最も豪快に躍動するのは、実は“エフェクト”だ。作画には“エフェクト監督”なる立場の人もいる。もし、これから鑑賞する場合は、エフェクトの動きにも注目してもらいたい。また、注目すべきは製作スタッフである。中心的な製作スタッフは、いずれもアニメ業界を代表する第一級の人達ばかりだ。続くシリーズにはない豪華さである。
それでも、NARUTOには、余りある魅力を多く含んでいる。
力強いアクションや、個性的なキャラクター達。
そんなキャラクター達が超人的アクションを見せる度に、我々は大地から解き放たれたカタルシスを感じずにいられない。
日本において(あるいはアジア文化圏で)は、古くから民話や神話の中に、子供のヒーローを多く描いてきた。
桃太郎や金太郎、一寸法師、少年牛若丸の武勇伝。
戦後を経てアメリカ文化が流入してきた後でも鉄腕アトムやドラゴンボールの孫悟空といったキャラクター達が子供達の一番人気だった。
NARUTOはそういった伝統の上に創造された物語である。
子供の身体が超人的な力を持ち、重力に思い切り反発して疾走し、跳躍する。
NARUTOが持っているカタルシスの根源は、もっと古くから根付いた、我々の精神にあるのだ。
監督:岡村天斎 原作:岸本斉史
脚本:隅沢克之 総作画監督:田中比呂人
キャラクターデザイン:西尾鉄也 メカニックデザイン:荒牧伸志
コンセプトデザイン:遠藤正明 美術監督:高田茂祝
色彩設計:水田信子 撮影監督:松本敦穂
絵コンテ:岡村天斎 川崎博嗣 演出:照井綾子
アニメーション制作:スタジオぴえろ
出演:竹内順子 杉山紀彰 中村千絵 井上和彦
甲斐田裕子 磯部勉 鈴置洋孝 唐沢潤
金子はりい 西川幾雄 高瀬右光
大塚周夫 石塚英彦 美山加恋